3日前に投稿されました

●ある心理学者の調査では、あらゆる分野で共通する「最も創造的な人物」というのは、大抵は内向的であり、たしかにある程度はアイディアを交換したりするくらい活発なのだが、それでも彼らは自分たちのことを「独立した個人主義者だ」と考えるのである。

●これらの調査が示しているのは、内向的な人物は一人で静かに働くのを好み、しかも孤独な状態がイノベーションを生み出す、というものだ。

●ある有名な心理学者によると、「内向的な人々は目の前の仕事に思考を集中させ、仕事とは関係のない社会的や性的なことに余計なエネルギーを漏らさないようにすることによって」創造性を高めるというのだ。

●たしかに歴史を見て行くと、孤独が人類の創造性を生み出してきたことは否定しがたい。ピカソは「孤独がなければ、優れた作品は生まれない」と言っている。

●宗教で言えば、モーゼやイエス、それに釈迦も孤独を必要とした。われわれは彼らのようなカリスマに注目はするが、その思想が作られた背景にある「孤独」というプロセスを軽視しすぎている。

●たとえばアップルだ。ジョブスの死によって神話が生まれつつあるが、最も注目しなければならないのは、そのパートナーであり、内向的な、スティーヴ・ウォズニアックという発明家の存在である。

●彼の仕事のプロセスを見て行くと、そこに「孤独」というキーワードが浮かんでくる。彼は何かを発明するときに独りで黙々とこなしているのだ。

●彼は自伝でも「今まで会った発明家やエンジニアのほとんどは、僕みたいに内向的だった・・・彼らは自分の頭の中に生きていて、まるで芸術家のようだった。芸術家というのは単独で仕事をする時に最も創造性を発揮するんです。チームや委員会ではなく、独りで仕事をしなさい」と発言しており、自分で意識的に孤独の状態を作っていたことがわかる。

●ところが現在の(アメリカの)仕事場では70%の時間は孤独ではない。小学校でも独りで何かを勉強するという時間はほとんどない。これは教会でも一緒だ。

●心理学の最近の研究結果として出ているのは、オープンなオフィスはそこで働く人々を「敵対的にして、不安にさせ、集中力を失わせる」ということだ。また、彼らは高血圧になりやすく、ストレスにさらされ、カゼにかかりやすく、疲労もたまりやすいという。

●他の人に邪魔される環境で働く人は、孤独に働く人々と比べて仕事で5割ほど間違いを犯しやすくなり、仕事を終えるのに2倍かかるという。

●多くの内向的な人物はこれを直感的にわかっているようで、たとえばバックボーン・エンターテイメントというゲームソフトの会社は、創設当時はオープンなオフィスだったが、内向的なソフトエンジニアたちには不評であり、壁で仕切られた形に変えたら能率が一気に上がったという。

●他の会社でも同じような結果が出ており、プライバシーは能率を上げるのである。

●心理学者のアンダース・エリクソンの言うように、学習の場合でも同じで、人間は独りでやらなければならない状況に直面した時に学習効率が一番上がるという。

1週間前に投稿されました

まず最初に言っておかなくてはいけないのは、「表現の自由は媒体を問わず尊重されなくてはならない」という大原則です。小説ならOK、漫画だとダメ、映画ならOK、ゲームだとダメということはそもそも間違いです。そこから考えましょう。


それから、『有害コミック』については興味もないし、むしろなくなってほしいとお考えの方にも、もう少し考えて頂きたいと思います。これは最近話題の、同性間の婚姻を巡るスピーチと同じロジックで考えることが可能です。「あなたにとって必要のない権利でも、切実にそれを求める人がいる」。


次の視点。一例として石原都知事は「ナボコフならいい。表現も綺麗なところがあるし」という発言をしました。ずいぶん前の筒井康隆の断筆宣言のときに浅田彰は「筒井のような二流の作家がタブーなき言語の聖域などというな」と発言。逆に小林よしのりは「筒井さんは何を書いてもいい」と擁護。


私はこの三者の発言のどれにも賛同しません。嘆かわしい思考水準だと思います。芸術的力量という曖昧な物差しをそれぞれに当てて、「この表現は自由」「これはなし」と決めることはできないのです。一流の作家ならOKという前提そのものが間違っています。


演劇の分野でもいろいろなことが起こりました。シュニツラーの『輪舞』、ヴェデキント『春のめざめ』など、二十年近くまともに上演されなかった戯曲があります。後年正当に評価された幾つかの名作の影には、知られずに消えていった作品が山のようにあるということです。もちろん作家も。


日本で起こった悲劇は、徳川幕府が女性の演じる歌舞伎を全て禁止してしまったことでしょう。国が乱れる、と幕府が感じるほどに大人気だった芸能がどんなものだったのか、我々はもう知ることができません。損害を被ったのは女性の歌舞伎役者たちだけではなく、数百年後の我々全員でもあるのです。


さて。ドストエフスキーの『悪霊』は50年ものあいだ、完全版の出版が叶いませんでした。少女を陵辱する場面があったからです。コミック規制を主張する人は、『悪霊』を十九世紀版に戻せ、ともいうべきです。やっていることは当時のロシアの役人と同じだということを、少なくとも自覚すべきです。


一流の小説家ならいいが無名の漫画家はだめだ、というロジックが通用しないのは、述べたとおり。媒体の性質や作者のレベルをもって、表現の自由に差をつけることは誰にもできないという原則を何度でも確認する必要がある。


唐沢なをき『電脳なをさん』の722号を見てみよう。ヒトラー似のへんなおじさんが「きんもーっ」の大号令のもと、都条例改正による表現規制を推進していく。ここで「きんもーっ」が出てくるのは正しい。青少年を守ろうといいながら、実は自分が気持ち悪がってるだけだろ、という批判だ。


「自分が気持ち悪いだけじゃないの?」という指摘をしたのは、私の知る限り唐沢なをきただ一人だ。そしてこれは実のところ、正鵠を得た重要な指摘なのではないだろうか。「気持ち悪い」→「一掃したい」→「(後付け)青少年にもきっと有害だよね!」というロジックで規制論が起こるのではないか?


だから、「実際の性犯罪を誘発しているか」の議論が無視されてしまう。「気持ち悪い」「青少年に悪影響を与えないはずがない」のほうが彼らにとって百万倍も大事だから。しかし、そこで立ち止まらなくてはならないのだ。本当に「有害」なのか。有害と無害の境界線を引くことはできるのか。


表現そのものに「有害性」はない、という内田樹氏の明確な指摘も参照されたい。 http://t.co/KkIrEW0W


チョムスキーのいうとおり、ヴォルテールは「自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護する」と述べた。200年も前のことだ。不快で、広い共感を得られにくい表現こそを守っていくことが必要なのだ。青少年保護を楯に自分の清潔感を守ることをしてはいけない。


児童ポルノの単純所持禁止、についても疑問提示。例えば、全裸の少年少女たちが登場する寺山修司の短編映画をビデオで所持していたら逮捕されたりするんでしょうか? されないとしたら根拠はなんでしょう? 芸術作品とポルノ作品とは誰が区別してくれるのか。

2週間前に投稿されました
こんなことをしたら嫌われるのではないかと、何もしない男が一番嫌われる。
世界の名言集 (via d-d-d)

2010-10-25

(via gkojay)

(出典: fahrenheit303)

2週間前に投稿されました

hetmek:

RySah (JPEG 画像, 961x720 px) - 表示倍率 (98%)

「ある大学に貼られていたという,ちょっとカチンとくる貼り紙」
(https://twitter.com/#!/okaguchik/status/200742752575692800)

(出典: kikuzu)

3週間前に投稿されました

電話の声が素敵だね、とか
笑った皺がかわいいね、とか
お茶碗の洗い方が丁寧だね、とか、
ほんとにもうなんでも、どんな小さな、ささいなことでもよくて、
「他人」という目線でそのひとの素敵なポイントを見つけて、
言葉にして手渡してあげることだと思っています。

ひたすら相手のいいところを見つけて言葉で肯定し続ける、
その積み重ねは自信になって、その自信はわたしがいなくなっても
わたしの大切なひとをつらいことから守る盾になってくれると思っています。

大切なひとにできるただひとつのこと - 備忘録

こういう考え方が欠けていた。

(via takaug)

(via diegoro)

(via yaruo)

(via vichy)

2009-03-19 2010-02-28 (via handa, picapixels) (via hal9000m) (via dobinn69)

(via satostudio1) (via toy-box08) (via usaginobike) (via kanpo0324) (via appbank)

(via ipodstyle) (via hepton-rk) (via fujihajime) (via k32ru) (via enjoylivingordie) (via ingurimonguri) (via etau0422) (via layer13) (via shinoddddd) (via metalbaka) (via akiyoshi) (via katoyuu)
3週間前に投稿されました
かつてのテレビ界には合い言葉がありました。「視聴者を巻き込め」というやつです。しかし、ウェブの登場ですべては変わりました。「視聴者を巻き込め」と、知恵の限りを尽くしてテレビが越えようとしていた壁の向こうに、きょとんとした顔でウェブがいる!そして勝手気ままに振る舞っている!この期に及んで壁を越えようとするのは、滑稽なばかりか、テレビの存在意義を低下させるばかりです。そこで00年代中期からさかんにこう叫ばれ始めました。「テレビにしかできないこと」を探せ、と。テレビ以上のものになろうとするのを止めて、テレビであることそれ自体の中に価値を見つけようというわけです。

しかし、テレビにしかできないことは実はそんなにありません。なるほど局にはコンテンツ制作のノウハウはありますが、そこは何もテレビというメディアに縛られる必要はありません。テレビにしかないものを突き詰めれば、結局のところ過去へのノスタルジーと、華やかな芸能界と、大衆動員力に尽きるのです。テレビ黄金期の回顧番組、早朝から深夜までタレントの大量起用、そして番宣の大量投下による無理矢理ヒット。3、4年前から各局に共通するトレンドは、テレビにしかできないことを追求した結果です。お笑いブームの異様な長期化の理由もここにあります。若手芸人の大量起用によるバラエティは、ただのブームではなく、テレビにしかできないことを、しかも低予算で実現してくれる、テレビの行き着いた先なのです。収入低下のテレビ局はタレントの大御所化を歓迎しませんから、消費され尽くして消えていく若手はこれからも後を絶たないはずです。
4週間前に投稿されました
植木等が生き生きとしていた時代は、日本の社会全体に冗長性があった。スーダラ社員も給料をもらえたし、無職のおっちゃんだって親戚の家に居候しながらなんとか暮らしていた。だが、今はどうか。効率を求めた結果、社会全体の生産性は上がったのかもしれない。ただ、冗長性は失われる一方だ。
1ヶ月前に投稿されました
わざわざ人間関係をギクシャクさせるような雰囲気を会社は作りたがらない。
だから会議では基本的に相手の意見を敬おうという指令が上からふってくる。
しかし、おおよそクリエイティブな世界でこんなことはない。 テレビ番組のプロデューサーだって、映画監督だって、若手の意見に容赦ないはずだ。
日本食の料亭だって、イタリア料理のシェフだって、ビルの工事現場の棟梁だって、
職人の世界では、その集団のドンがユーザを代表して、「お前は糞だ。できねえなら辞めろ」と罵声をあびている。 世の中のクリエイティブ集団のトップは、顧客が駄目だと言えばもう終わりだ。終わりたくないから、若者を叱咤する。
逆に若者の方が正しくて「親方の方がもう使い物にならなくなりましたね」となれば職人人生に終止符を打たなければならない。
1ヶ月前に投稿されました
1ヶ月前に投稿されました

現状のノマド礼賛が、87年にリクルートがフリーターという言葉をつくり、煽り、結果として希望難民を大量に産んでしまったことと同じ空気を感じます。
フォローするとリクルートも当初は組織にとらわれず、自分の夢に向かってチャレンジする生き方を応援するために、良かれと思って作った言葉のはずなのですが。

同じ結果にならないかと曖昧な不安を感じています。